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和紙
本堂と妙見堂

 本堂と妙見堂 

心豊かに

ほんぎょうじ

日蓮宗 常智山 本行寺

高槻城主祈願所

高槻三面大黒天神

「病を除くお寺」として皆様に信仰されております

病気快復祈願 ・先祖供養

開運厄除・水子供養

交通安全祈願・地鎮祭

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本行寺の由来
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本行寺の由来

​当山は、高槻市大手町にあり、日蓮宗・常智山本行寺と号し、題目宝塔、釈迦多宝二仏を本尊としています。

その昔、高槻大蔵司村付近の丘陵に岡本寺という寺があり、文武天皇の時代(白鳳時代)の豪族の氏寺と推定されます。その寺跡に日蓮宗本照寺が建立され、戦国大名の三好元長、細川晴元の外護を受けて隆盛をきわめますが、法華一揆に続く、天文法華の乱に、あえなく焦土と化しました。三好長慶により毘沙門堂として再興されますが、高山右近公の時代に、その堂宇ことごとく焼き討ちされ、住職は上の山の祖師像(本行寺に現存)をもって備前(岡山)に逃れたとされています。後に復帰がかなうのですが、他宗との折り合いがつかず、現地復帰及び元の寺号の呼称が許されませんでした。

 

しかしその後、慶長元年(一五九六)、一如院日重上人(後に身延山二十世法主)が、弾圧下の法華の住民と協力一致尽力して、高槻城下に日蓮宗を再生させ、常智山本行寺と号しました。当時はまだ本堂を造営することもできず、ささやかな寺院にすぎませんでした。

その後、第五世日東上人のとき、永井直清公が高槻城主となりました。そのころ、直清公には内願があって、古曽部の弁天に祈願されていたのですが、意のままになりませんでした。そうしたなか、本行寺の日東上人の名声を聞かれ、ぜひ祈祷を受けたいと申し出られ、さっそくに祈念されたところ、たちまちにご利益があり内願が成就されましたので、大変お喜びになり、以後深く信仰されました。

 

そうして、この内願成就の報恩のために、本堂を建立されました。寺の記録によりますと、このとき大工百人、人足千人をもって造営にあたり、みるみるうちに完成したとのことで、これによっても直清公の信仰の程がうかがえます。ときに慶安四年(一六五一)六月六日のことでした。同月十六日、直清公は完成後初めて本行寺へご参拝になり、「当本行寺は、高槻城の艮の方角にあたるところから、京都比叡山に準じて、当城下の安全と厄除けの道場となすべし」と重ねて命じられました。

 

その後、本行寺は高槻城主祈願所となり、連綿として打ち続き、「病を除く寺」として現在に至ります。境内には、本堂をはじめ妙見堂、大黒殿、客殿、鐘楼などがあります。本堂の正面には、「唱導殿」と記した大きな額が掲げてありますが、これは、高槻城主第十代永井直與の子直寛の書(文政年間)によるものです。直寛は、米庵に師事し、書や詩が非常に堪能であったと伝えられています。

また、当山の山門は高槻城の一角にあった門といわれています。このほか、詩人藤井竹外の墓が世に知られるところであります。

日蓮聖人

日蓮聖人

年中行事

年中行事

初祈祷会

一月六日

大黒天神祭

一月十日

節分祈祷会

二月三日

節分星祭

二月三日

春季彼岸会

三月 春分の日

春の祈祷会

五月三日

一万遍お題目修行

七月十五日

盂蘭盆せがき

八月二十日

精霊送り

九月一日

秋季彼岸会

九月 秋分の日

秋の祈祷会

十一月三日

御法難会

十一月十一日

御会式火焚祭

十二月十二日

読誦・法話会

毎月一日・十五日(午後一時)

境内のご案内

本行寺境内のご案内

本堂

六甲山平和観音

六甲山平和観音

日啓上人(第三十四世)が昭和二十一年一月十七日、六甲山上に平和観音堂を建立す。激戦地の土を入れ英霊のみたまに捧げる観音像を造る。名古屋の陶工清風師の作である。

毎月十七日永遠の平和を祈り戦没者の慰霊をつとめ続けるも、五十年目にして立退きを申し渡され、本行寺に移転安置される。その翌年一月十七日阪神大震災が起こり、初講の日の災難をまぬがれる。

日蓮大聖人

日蓮大聖人

鳥は鳴けども泪流さず、日蓮は泣かねど泪ひまなし

本行寺の祖師堂に安置されている日蓮聖人像は、上の山のお祖師さまの名で親しまれている。大覚大僧正開眼といわれるこのお祖師さまは、服部上の山本照寺が、天文の法乱に焼け落ちた時、密かに何者かによって岡山に逃れたという。しかし夜な夜な、お堂の中から泣き声がするので、堺の地に移された。そこで又泣き声が絶えないので、早く高槻に帰そうということになった。その後久しく何処に移されたかわからなかったが、法華宗禁制下の高槻の篤志家宅の倉の中で夜、祖師像の泣く声がするという噂がたった。この表現がいかにもおもしろいと思う。有力者の倉の中である。人はそこに仏像がかくされているとは口に出して云えない。

そこで夜通ったら泣声を聞いたと表現するのである。法華宗の禁制がとかれて本行寺が創立され、このお祖師さまは泣くことをやめられたと伝説は語っている。しかしお祖師さまは泣いてなんかいらっしゃらなかったに違いない。只涙を流し続けておられたことだろう。ほかでもない。いつもお祖師さまはとめどもなくわきあがって来てどうにもならない涙でぬれた魂で、法華経のことを思いいたされていたのであるから。

妙見堂

妙見堂内陣

妙見堂內陣

山門と法華経守護神の塔

山門

もともとこの門は高槻城の一角にあった門で、本瓦葺、高麗門である。従って寺の門の様式をしていない。高槻城は西暦(990~995)の頃、近藤忠範が築いたのが始まりとされ、その後、目まぐるしく城主のかわった高槻城も慶安2年(1649)永井直清が3万6千石で入城後、220数年、永井氏が代々居城として明治に至った。

高槻三面大黒天神

本行寺守護の稲荷神・弁財天・大黒天を三神一体に祭った神様

藤井竹外の墓

幕末の漢詩人藤井竹外は、文化四年(一八〇七)高槻藩士藤井沢右衛門の長男として生まれた。藩の教育機関である菁莪堂で学び、鉄砲の名手でもあった竹外は、青年期から詩作に傾倒、頼山陽を師と仰いだ。旅を好み、酒をくんでは詩作に没頭し、七言絶句を得意としたため、「絶句の竹外」とも呼ばれたという。嘉永七年(一八五四)刊行の「竹外二十八字詩」(前編)には、二一五首の詩が収められており中でも「花朝下澱江」「花井」「芳野」などは彼の代表的な作品として知られている。慶応二年(一八六六)、病により六十歳で世を去った。本行寺に自然石に刻まれ「竹外藤井先生之墓」がある。

寺院概要・アクセス

寺院概要

名称

本行寺

住所

〒569-0078 

大阪府高槻市大手町2-43

電話

072-675-0006

FAX

072-673-8440

阪急高槻市駅から南へ徒歩5分

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